観光には、お金を同様の価値を持つという側面もある。
お金は、多数の人間による共通認識の価値観の上に成り立つ価値である。つまり、お金には本質的な価値はないが、皆が価値があると思うから価値がある。というのがお金の中身だ。
これと同様に、観光もそういった側面を持つと考える。
例えば、タイに観光に行った時に有名なワットポーを見に行くとする。個人的には、宗教に関心もなくワットポーの金の像には価値はない。ただ、そこはタイ有数の観光地であり、多くの人が見に行く。恐らく自分みたく宗教に関心がない人でも見に行く人は多いであろう。正直、金の像くらい日本でも作れるだろうし、本質的な価値なんてない。それでも自分も同じく、多く人は行ってしまう。そして、多くの写真を撮り、満足感を得るのだ。それは、ワットポーが多くの人に認知され、価値があるという共通認識で成り立っているからだ。お金と同じなのだ。
もちろん、観光や旅の価値はこういった面だけではない。
例えば、その街の風景、人々、匂い、環境はその土地ならではあり、他では意図的に生み出せるものではないであろう。または、グランドキャニオンといった自然によって作られたものや、それまでの背景を持った観光物は人間が意図的に作れないし、作られても意味は持たないであろう。
以上より言いたいことは、観光においてその目的の価値を見分ける必要があるということだ。観光地の多くにはお金的な価値を持ったものもある。だから、その観光地の本質的な価値は何かを見分けなければならないのだ。
観光の目的がお金的な価値にあるのなら、それは陳腐な旅になってしまうあろう。
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